中国台湾の版画から見る日本
福建省師範大学美術学院にて「山高水長―周瑛回顧展及台湾現代作家展」が開催された。もともと福建省は港町ということで、外の世界へいく人がとても多く、例えば蔡国強も福建省の出身である。もちろん台湾とのゆかりも深く、福建省出身の版画家周瑛(1922年生まれ)は1948年に台北師範大学美術学院にて教鞭をとり、台湾で制作をしていた。周瑛はのちの台湾版画作家を多く生み出し、版画界ではとても重要な人物である。今回は彼の子孫が彼の生誕を記念して、母校での回顧展をぜひ行いたいという意向で「山高水長―周瑛回顧展及台湾現代作家展」が開幕した。
開幕式の様子
展覧会会場の風景 手前周瑛の資料、奥は周瑛の版画
展覧会会場
周子薦が周瑛の作品を福州師範大学美術学院に寄贈 左は周子薦 右は王長平学長
台湾と大陸(中国では台湾と中国の関係をこのように呼ぶ)の文化交流の活性化を願って「海峡両岸当代芸術討論会」シンポジウムも開かれた。おもしろいことに、これが周瑛個人のアーティストとしてだけでなく、台湾の版画界の歴史の流れからみる国外情勢、また日本の版画作家からの影響など文化混合としての台湾、中国、日本の関係が興味深く連想される。
シンポジウムでは、福建省師範大学美術学院院長の李豫闽司会のもと、台北芸術大学仏像研究専門家の林保堯は周瑛の作品に用いる木の木目、石から自然を超える物質の文化特質を伝え、「美術研究」編集長の殷双喜は東洋哲学と宇宙的考えから作品を分析した。
シンポジウムでの殷双喜
版画家の鐘有辉は台湾の版画の発展の歴史をのべ、民間の伝統的な木刻から40年代(光復以降)白黒で写実的な創作が主流となる。また50年代は戦争に関する木刻版画、1968-1972年に「現代版画会」ができる。60年代は留学ブームにより海外から技術を習得した版画家が台湾に新潮をもたらし、日本に留学した人はメゾチントの技術を台湾に伝承した。1970年代国際連盟脱退により、版画界は低迷、、「中国版画協会」から名称は「台湾版画協会」に変更、1974年十青版画界ができる。1983年台湾国際版画ビエンナーレが開かれ、78の国が参加、これにより台湾の版画界は再興する。ここから美術史と国際情勢の密接さ、そこからみる文化混雑性を台湾にみることができる。
広東美術館館長の罗一平は2011年におこなわれた台湾と広東美術館の交流展にて、コンテンポラリーアートの時間軸と私―他、可―不可の理念を提唱し、2ヶ月で20万人の来場者を記録した交流展の会場写真をみせてくれた。
台湾美術評論家の萧瓊瑞は1949年を境に以前は浪漫的な作風が、保守的、社会政府を歌うものが主題となる。60年代は現代美術の新潮もあり、抽象的な画風が主流とナリ、そこから1963年周瑛の「恬」、1983年周瑛の代表作「石之頌」ができる。
問題を述べ、国立台湾芸術大学美術系主任の陈貺怡は周瑛の作品を「反材質主義」として、西洋美術史上の材質主義と比べながら、版画という媒体が材質主義を瞬く間に反材質主義にしてしまうコペルニクス的転回をなしたと話した。深圳市に版画基地を管理している李康は版画センターのプロジェクトなどを紹介した。
周瑛の作品 《恬》196 3综合版 52cm56cm
周瑛の作品 《石之颂(8)》综合版 1983 107cm78cm
周瑛の作品《有小鸟的树》1995年 综合材料 180cm120cm
周瑛作品《89-6》1989年 115cm148cm
右は福州師範大学美術学院院長の李豫闽院長
作家と台湾芸術大学美術系主任の陈貺怡と
福州師範大学美術学院の先生と
左からは周子薦、評論家の顧重光、右は総統府の李鍚奇
左は版画家の鐘有辉
左から、李鍚奇、萧瓊瑞、私、顧重光