靳尚谊
1934年生まれ 1953年に中央美術学院絵画科卒業 1957年にマクシモヴ油画訓練クラス卒業後油画第一工作室の主任へ。1987年から2001年まで中央美術学院の学長を務める。
もと中国美術家協会主席。中国写実絵画のさきがけとなる
中国で知らない人はいない、画家の靳尚谊。彼は中国美術の開放80年代から90年代のアートポップ、2000年初頭のアートバブル時代において中国のトップの存在であり、彼の写実画は多くの美大生、中国美術界に影響を与えました。
今回はその靳尚谊にインタビュー!
江上:中国のアートを見たときにどうしてこれほどまで日本と違うのだろうと考えました。そのヒントが靳尚谊さんにあるのではいかと、今回のインタビューを楽しみしていました(笑)
靳尚谊:そうですね、やはり社会と美術の歴史を考えないといけませんね。私が本科生のときには油画系(油絵科のこと)はまだなくて、絵画系に入学しました。この絵画系というのは年環画、線描画などを含んでいる絵画全般の専門でした。私は55年から57年の優秀班で二年半油画を勉強しました。1年習作で1年半は創作ですね、私は素描期間が長かったのです。その後歴史画もいくつか描きました、もちろん文革の影響で紛失したものもありますが。改革解放後若者の肖像画を描くようになりました。中国油絵と壁画の融合を考えて、平面性、水墨画を取り入れたり、例えば黄宾虹(中国水墨画の巨匠)の肖像画を描くときは背景は水墨画のタッチを出しました。またこれはイタリアの少女を描いた作品です。イタリアは先進国ですが、現地にいったときドイツと比べてとても古いものを大切にしていると気づきました。建築も古いものが多く、ボロニアは環境が古い上、カトリック教です。そのときある少女と母親と一緒に食事をしたのですが、その少女は「神はいない」というんでね。そうすると母親はすごく怒ってしまい喧嘩になってしまいました。だからこのイタリア少女の作品には彼女は祈っているけれど、目がそれているでしょう?そういう現代人を表現したのです。
《老橋東望》1997年
《晚年黄宾虹》1996年
肖像画は中国文化と関係しています。現代主義の一番大きな特徴は平面化です。ルネサンスから19世紀まで真に近づくこと、立体性を強調していましたが、工業化による中産階級の出現で商品画があらわれます。前はオーダーメードだった絵画が一般の人も絵を買うようになり、それで19世紀末には画廊が出現しました。印象派の出現は色や光が重要で内容は重要ではなくなり、昔は油絵のなかにたくさんの物語を入れる必要がありました。肖像画は誰を描くのか、もちろんそれは似ていなくてはいけませんし、性格をも表現しなくてはいけませんでした。印象派の多くは形式主義です。ゴッホもセザンヌも形式ですよね。現代主義の代表であるマティスやピカソは平面化、明暗を弱くして平面化、装飾化です。
日本も中国も西洋から油絵をまなんでいます。日本は中国よりも先で、例えば梅原龍三郎がいますね。日本もまずは写実から印象派へ変化し、例えば梅原龍三郎はマティスの影響をとても大きく受けていますね。今でも日本には多くの現代主義の作品が収蔵してあり、依然として印象派が好きなような気がします。中国は日本よりも50年間遅れて、20世紀初頭に西洋へ留学しました。西洋のアカデミックはまだ写実でしたが、社会では現代主義が主流を占めいていました。なので中国では当時徐悲鸿の学んだ写実派と林风眠率いる現代主義2つの流れがありました。最も古い美術学校は刘海粟の建てた私立の美術学院です。49年に新中国(中華人民共和国)成立のときは主な学校が2つしかなかったのと、何十年におよぶ内戦、世界大戦で油画学校の発展はとても緩やかなものでした。この時期において徐悲鸿率いる写実画の影響が大きかったのですが、その時期の全国美術展の作品もとても少ないものでした。1949年のとき中央美術学院と華東分院(後の浙江美院、今では中国美術学院)この2つの美術学院が主要でした。でも50年代に他にも美術学院はたくさんでき、例えば西安美術学院、四川美術学院、広東美術学院、魯迅美術学院など大きな美術学院だけでなく、師範大学にも美術科ができました。もちろん文革後の回復で生徒数の増加に伴う新校舎設立や、主にデザイン科の新しい分野ができました。
だから中国1950年代というのは写実画が主要で、というのも経済がよくないから文化藝術の発展がとても遅いのです。改革解放前は、前華東分院と中央美術学院の絵画系(絵画科のこと)は年環画、宣伝画(ポスター関係)の人材育成が主で、国画や油画などの絵画能力を育てる所ではなかったのです。美術館も59年に着工し61年に正式に開館し、革命博物館、国家博物館などができました。国がとても貧しいので、まずは生存問題を解決しなくてはなりません。当時中国では農民はとても貧しく家の中も暗いので、新年のときこそ派手で明るい年画を一枚でも買って家に飾る風習があり、中国では大量の年画が必要とされていました。お金がある人も国画を少し買ったりで、荣宝斋でも齐白石の作品は当時とても安かったのです。
なので美術学院全体が50年代建設当時はそのような人材育成を行っていました。53年のときに一つ目の5ヵ年計画が始まり経済が回復し始め、美術学院は5年制の学生を集めるようになります。49年から絵画系が、53年には絵画系が油画、国画、版画に分けられました。もちろん一期生は58年卒業です。なので江上さんは歴史を理解しなくてはいけません。どんな藝術でも社会の需要があってこそ発展があります。それは西洋も同じで経済発展がとても重要なのです。それぞれの国が自分の条件を用いて発展しています。国家利益が一番第一でそれは中国でもアメリカでも、ロシアでも同じなのです。それでは中国の50年から文革前までの17年間、なぜ写実藝術が発達したのでしょうか?
それは大衆にわかりやすいからです。国は歴史画が必要で国が収蔵する必要もありました。私が昔描いた歴史画もあれはもちろん生活のために描いていたのですよ(笑)西洋でも宗教の壁画と同じで、肖像画でも歴史画でも同じでオーダーされたものを描く、同じ様式なのです。なので中国50年代から文革の期間、多くの人が歴史画や現実を反映している作品を描いていていました。改革開放後、政策が変わり、経済主導になるとそれはゆっくりと変化していきました。みんな当時はもっとコンテンポラリーや抽象画など前へと進みましたが、私は逆に後ろに行きました。そのときはソ連の作品はいくつかありましたが、ヨーロッパの原作を見る機会はなかなかなく、私は欧州に行きました。初めて言った国はドイツだったかな。
江上:先生が海外に行ったのは79年ですよね。アメリカにも行ったとか。
靳尚谊:ええ。81年にアメリカにも行きました。私は多くを見て、古典が非常に大事だと感じました。なぜならそれは基礎だからです。古典を研究する、要は技術への深い理解は油画本来の言葉を理解することにもなります。
江上:先生は著書にてワシントンの美術館をめぐってレンブラントに一番惹かれたと書いてありますが、実は私も去年そこに行きました。多くの抽象画や他の作家の絵があるなかどうしてレンブラントを選んだのですか。
靳尚谊:それは私のレベルアップに必要だったからです。伝統なのか現代なのかそれは重要ではありません。それは美術理論家のある種の言い方にしかすぎません。中国人にとって、油絵は外来なので、自分のレベルアップをすることが一番、コンセプトは重要ではないのです。なぜなら私の肖像画にも社会への見方が含まれているし、思想というのはひとりひとり違うものですから、ですから技術が一番重要です。だから他の人が前へ進んだとき私は後ろへ進みました。なぜか?それは油絵のレベルを上げるためです。
(ページを開きながら)以前は明暗、線が強く、それはロシアでもフランスでも同じで、みんなイタリアから来ているのです。アングル、レピンはみな宗教であり科学ではありません。あなたが中国でよく耳にする言い方は分革後の情緒化したものが多いはずです。
中国と日本はみんなヨーロッパから学んでいます。中国の西洋油絵に関する研究はとても深く、油絵の言葉上、写実画が主です。北欧も当時イタリアの勉強をしていました。というのもイタリアが早いのは経済がよかったらなのです。
以前日本の加山又造を招いて講演会を開いたり、平山郁夫は私たちの名誉教授でもあります。日本はヨーロッパから学んで独自な日本を形成しましたが、中国は学んだあと、みんな同じになってしまいました。日本は唐代の影響を受けつつも、経済発展後、ヨーロッパの作家の個展を多く日本の美術館で展示していますね。以前はよく展覧会をみに日本に行っていましたよ。最近は体が優れないので行けませんが。一番早くに行ったのは85年日本へ行き、東山魁夷など更に年上の日本画家と交流をしました。日本は油絵を勉強したあと日本画を変えたように思います。
江上:日本油絵と中国油絵の違いはどこでしょう?
靳尚谊:日本は野獣派の影響を受けているのに対し、中国の文革終了後写実80、90年代古典がでてき、現代のものも一気にでました。90年代後半のコンセプチュアルアートは概念でアクションなので学ぶ必要もなく、始まったばかりから発展がとてもはやかったのです。
80年代はコンテンポラリーアートもありますが、中国は現代主義のマティスの部分の発展が足りません。逆にインスタレーションは発展が速く90年代末から上海ビエンナーレにたくさんありました。北京のビエンナーレは具象が主でカンディンスキー、現代主義の画家は中国にとってはとても大事です。なぜならそれは デザインと関係するからです。デザイン、建築、ファッションそれらは全て現代主義の画家が生み出したもので、工業化後にうまれた製品です。視覚的に美しいのはもちろん油絵からきているし、現代主義は形式です。
なので現代主義は中国の現代と伝統を影響し、油絵の抽象美は真実からきています。なのでどのスタイルも写実のデッサンが必要です。これは基礎です。写実のデッサンが描けなければ絵は描けません。東洋は固有色ですが、ヨーロッパは光によるものです。特に印象派は外光スケッチによってあの色が見えてくるのです。基礎の写実ができていなければ、コンテンポラリーもできません。道理は同じだからです。京劇と演劇も同じで、京劇は中国独自のもので抽象的に対し、演劇は西洋のものでとても写実です。これは藝術でも同じことが言えます。
江上:中央美術学院美術館で行われた「油画中国風―董希文百年诞辰纪念展」が行われましたよね。「中国油絵の民族性」はよく耳にするのですが、具体的には民族性とは何でしょうか?
中央美術学院美術館 「油画中国風―董希文百年诞辰纪念展」ポスター 画像はCAFAMから
靳尚谊:当時中国は独立したばかりでまだ弱かったので、弱い国家は自信が必要になり、一種の政策として出したものです。しかし民族化といのは中国すべての油絵家が自然に行うことです。国の提唱は短期間ですから、今はどんなスタイルもありますよね。経済も発達し、少し強くなりました。中国の装飾性、壁画に近くなると、現代になります。
江上:民族的な油絵と民族的でない油絵の境目は?
靳尚谊:壁画のような平面性や色が艶やか、装飾効果があり、光による陰影が弱いところです。民族風というのは簡単に言ってしまえば条件色ではなく固有色、かつタッチと人物は写実であり、調和していること。
江上:近代の中国の油絵家、例えば丘提はとても有名な女性画家ですが、当時多くの西洋画を学んだ留学生が帰国後専門を変えています。さきほど先生も話していた徐悲鸿はフランスで油絵を学びましたが、帰国後中国画に転換しています。先生はこの時期の油絵をどのように見ますか。
靳尚谊:当時油絵というのは市場がなかったのです。だから多くの西洋画を学んだ生徒が中国画に転換したのは生活の原因なのです。売れないというのと、当時描くのも下手だったからです。1950年代に旧ソ連への留学し、帰国した人は継続して油絵を描いていますよ。というのも社会が安定し、民衆も油絵を理解できるようになったからです。油画、彫刻、版画、中国画などの科がそれぞれ建てられてからずっと油画を志望する生徒が一番多いです。市場もありますし、若い人は逆に中国画は古くて見てもよくわからないという人が多いのではないのでしょうか。
江上:当時フランスへ留学した生徒のほかに、日本、ロシアへ留学した人もいますね。
靳尚谊:1949年より前は日本へ留学する生徒が多く、その次にフランスです。例えばフランス留学から帰ってきた代表的な林风眠、吴作人、徐悲鸿らは19世紀の直接画法で、日本に留学から帰ってきた有名な弘一法師(李叔同:詳しくは第三回えっちゃんの中国美大日記にも掲載されてます)がいます。
私が学んだデッサンはロシアの素描ですが、どちらにせよ、中心はヨーロッパなのです。海外に行って自分の画力がまだまだ足りない、油絵の形成する抽象美を表現できていないと感じていました。ヨーロッパに行って大量の作品をみて、模倣したり、制作をしました。古典というのはスタイルではないのです。スタイルを追求する必要はないし、スタイルはどれも平等です。自分のスタイルは自分の手で作らなくてはいけません。なので教育でも先生にそっくりではいいことではありません。中国の中国画家巨匠の李可染は「学我者生 似我这死」と言いましたが、これは規律なのです。
2012年中央美術学院美術館で行われた「芳草长亭:李叔同油画珍品研究展」 画像はCAFAMから
江上:先生はどのようなアーティストが好きですか。
靳尚谊:ダビンチとヴェルメール、レンブラント、ベラスケスはみんな好きでしたし、セザンヌ、マネ、ピサロ、モランディなどの印象派も参考にしました。最近研究しているのはモディリアーニ、エゴンシーレ、クリムトです。マティスも長い間ずっと研究していました。
もともとババのような強いタッチの作品も好きで参考にできたらよいと思ったのですが、私の性格が比較的敏感で温和なせいか、どんなに真似しても似つかない(笑)
だからスタイルというのは学べないんです。自分の道にあってなきゃいけない。
江上:中国の油絵と西洋の油絵の違いは?
靳尚谊:特に違いなんてありません。私は徹底的に西洋油絵を勉強しました。西洋の現代主義は日本の浮世絵から多く影響を受けて平面化、真実ではない形式で、平面性、装飾性を帯びてきました。そのような変化のように、どんな変化でも社会の需要とともに変化しています。
東洋はそのような形成がなされず、線描という形で、最初からお寺のなかで吴道子のように仏教と共に発達しています。中国宋代のときに水墨が生まれました。以前は書道でしかなく、その後王羲之という重要な書道家が現れて、文字を書く道具であった書と水墨はのちに水墨画になっていきます。この「線」は東洋の特徴でもあり、現代的でもあるのです。
江上:中国でよく聞く「造型」という意味は?
靳尚谊:塑造形体のことです。それは厚みがあって重さがある、一種の美です。油絵の美は古今東西に関わらず全てこの特徴があります。重厚感と豊富な層の重なり…。東洋は白描がもとになっていますよね。
江上:西洋からの造型ということですね。先生は1987年から2001年まで中央美術学院の学長でした。当時中国は激動の時代で西洋の吸収と中国美術界変化の過渡期で、先生の古典写実画は多くの若い人を影響しました。これは中国の特別的現象で、しかしながら国際上の藝術潮流からずれる部分があったように感じます。
靳尚谊:90年代にコンテンポラリーに急に傾倒して行きました。実際デュシャンのようにコンテンポラリーのものは5,60年代からありました。でも中国に影響はなかったのです、今になって影響される人が多く出ました。印象派もそうです。当時ヨーロッパ政府は印象派を肯定していませんでしたし、サロンの基準は歴史画を描いていることで、ゴッホも整然絵は一枚も売れていないのですよ。これが時代の変化というものです。
江上:でも国際上の美術界と中国の美術界はとてもつながりにくい状況です。
靳尚谊:私たちはつながる必要がありませんよ。なぜならそれぞれの作品は本国の人のために描いているからです。だれがお金を払えば誰に描く。海外の人が評価したところで、それはあなたを養ってくれますか?海外の人は中国の中国画(水墨画のこと)、書道がとても好きです。わからなくてはいけないのは、最後に私を養っているのは中国ということです。
長いインタビューにパワフルに答えてくれた靳尚谊はなんと81歳!
靳尚谊がよく話していたのは藝術の流れ、全ての現象は社会の需要の変化に必ず伴うということ。日本美術と中国美術の違いのヒントはどうやら社会背景にもあるようです。
靳尚谊先生の書斎にて
靳尚谊先生にインタビュー中